七柱会
Amaterasu-Ra Temple, No. 3
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このWebページにある記事の多くは、管理者が、小智小見の憚りなく、ただ愚見を述べるのみにて、
検討のため自問自答を繰り返すにすぎぬものも多く存在します。
大負けにまけてworking papersといったところです。
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「「魔術」は「宗教」の中で十分に「価値ある」ものではない要素のための、ゴミの山」とは、ジョン.G.ゲイジャー(『古代世界の呪詛版と呪縛呪文』(志内一興訳、京都大学学術出版会、2015、p.36)の言葉です。「ゴミの山」と評価されるだけあって、「魔術」とのの言葉が収める領域は、非常に広大で、雑多です。そこで、マサースが示したカバラの主要命題を確認することにより、学習のシラバスや学習におけるメリハリをつけると効果的です。
カバラは、へブル文字を使用する。へブル文字には、字形、声(音)、意味、数の「四つの要素」存在する。
われわれ日本人は、漢字(真名)と平仮名・片仮名を使用しているが、一つ一つの文字に数を当てはめていないので、やや感覚が掴みにくいかもしれない。ただ、前の三つについては、日本でも、日常に使っている漢字等はもちろん、秘密仏教(密教)などで悉曇文字を中心に字形・声(音)・意味を扱っている。そのことから、文字とこれらの結びつきが普遍的なものである、と同意できるのではないだろうか。
この分野に対するアプローチとして、以下に引用する文章はきわめて示唆に富む。直接には、真言密教に関する文章であるが、用語を換えれば、カバラに関する文章として通用する。わたしの下手な文章よりも分かりやすいので、注意深く読んで欲しい。
真言密教ではことばのもつ象徴的な機能をきわめて重視している。万有一切とそれらを表現することばとを媒介するものは観念であるから、ことばの内奥には万有一切が実在していなければならない。そしてその実在が観念を媒介としてことばとなる以上、口にすることばだけではなく、ついには存在するところのすべての実在がそのままことばであるというところまで到達する。これが法曼荼羅である。実在がことばであるとみるためには深秘の瞑想を必要とする。そこで、よりわかりやすいように、仏菩薩を表示する一字、二字の梵字、真言、経文などのもつ意義をもって法曼荼羅とするのである。法曼荼羅の解説の文章だが、文字との関わり合いについて、私たちにも納得できる内容である。
宮坂宥勝「秘密の世界」『仏教の思想9 生命の海<空海>』(角川書店、平成8年、p.106)
「あれあのセフィラ―の天使団の綴りどうだったっけ、ちょっと確認したいな」と思ったときに、ちょっと確認するための確認表。
Paul Foster Caseが受け取った、聖なる神の10の流出をThe Selfの面から捉え直した最高のアファメーションの一つ。「靈氣」の人が、「「招福の秘法 万病の霊薬」今日丈は 怒るな 心配すな 感謝して 業を励め 人に親切に 「朝夕合掌して心に念じ、口に唱えよ」」の五戒を朝夕となえるように、これを唱えてもいいだろう。
ピタゴラス以来の「万物は数をその本質とし」との伝統に基づき、私たちの学ぶ「カバラ」において、「数字の持つ超自然的な事柄の意味の研究」(いわゆる通俗的な占術としての数秘術ではない)は学習の必須項目です。セフィラ、セフィロトが本来「数」を意味することを思い出してください。最終的には、タロットの番号や魔方陣の研究、ゲマトリアなどもかの数の領域入れてよいでしょう。
GD関係では、ウェストコットによる、そのままズバリ、マサースが挙げた主要命題に対応するような「数:そのオカルト的力と神秘的効力」(Numbers: Their Occult Power and Mystic Virtues)という一冊が同誌編集のCollectanea Hermetica第9巻に存在します。
なお、私たちは、ものを数えるとき、しばしば手の指を曲げて数えます。手の指は10本で、これで一つの塊です。はじめにこの一つの塊があり、それに対応するように神の十個の属性を挙げたものがセフィラーかもしれませんね。セフィラーも、ある種の「仮初(かりそめ)」であることを忘れないようにしてください。
また、この分野について「も」、当然ながら多くの批判がある。
文書にまとめるほどではないですが、役に立ちそうなちょっとした覚書の記録
ピタゴラス学派・プラトン主義は、直接或いは今日新プラトン主義者と呼ばれている人々の教説を通し、ヘルメス主義やカバラに影響を与えました。新プラトン主義に関しては、2014年に水地宗明・山口義久・堀江聡編著『新プラトン主義を学ぶ人のために』(2014、世界思想社)という素晴らしい本が出版されました。それを手始めに、色々参照して見てください。
ただし、新プラトン主義やプラトン主義の正解に対する考え方・理解が、GDに代表されるような今日オカルト界隈で「西洋の伝統」と称されているもののそれとイコールではないので注意してください。オカルト界隈では、私を含めて筆者らが部分的に読んで感銘したところを、部分的に引用しているのが通常です。「間違った区切り」での読書、引用であることが非常に多い点には注意が必要です。例えば、私がプラトンの言葉を引用した場合、「プラトンの主張している言葉」として紹介するのは誤っているのかもしれません。その言葉が作品の最後で否定されているかもしれないからです。
W.W.Westcottら、GDにも参加したイギリスの薔薇十字協会のシニア・メンバーが中心となり、当時入手が難したった薔薇十字、錬金術、カバラ等の文献を、同好の士・学生らのために集成・出版したアンソロジー。いわゆるフィチーノらの『ヘルメス文書』とは違うので注意。
Tarotはdivinationの項と同じ。Leviの『高等魔術の教義と祭儀』以降は魔術的またはキリスト教的カバラの主要となり、多くの人物に恵みを与えています。私たちが学ぶタロットは、図象、番号、タイトルといったことを中心に、生命の木、へブル文字、占星術などを駆使して学ぶ、秘教の哲学・観念、そして、その操り方です。
ここでは、便宜上、「クレボヤンス」と標題を付けた。しかし実際には、いわゆるクレボヤンス(霊視、見るだけ)、アストラル・プロジェクション(イメージの中に飛び込んで旅する)、平面世界への上昇の三種類に通常分類されるものを取り扱う。これらについては、実質的には、瞑想――この言葉自体、集中して、熟慮するといった意味で、多くの方が想像するような特別な意味は、本来ないといえる。著作を検討したり講演を聞くときは、論者がどのような意味を託してこの語を用いているかに注意するべきである――の一分野と理解するべきである。
また、「あるがままを観察せよ」といった価値観の持ち主には、この「世界」から目を背け、霊界に遊ぶこれらの試みは、実に愚かな、「妄」の一字に集約される、欺瞞と妄想に満ちたものである、とみなされるかもしれない。
スウェーデンボリの霊界探求、この世になき楽園への憧れ。批判としての、カント『視霊者の夢』。
一般に幽体離脱や体外離脱体験を明確に定義することは難しい。そのため比喩的な表現になるが、ある完全な生きている人間を物理的肉体と霊的肉体とに分け、それが分離する体験、物理的肉体から霊的肉体がそのまま抜け出している。そのようなことを指していることが多いのではないだろうか。
これに対し、「黄金の夜明けの伝統」あるいは黄金の夜明け団にいうアストラル・プロジェクションは、肉体の外に仮想の肉体を「想像して」そこに意識が移ると「観る」のが多いと思われる。
この「幽体離脱」「体外離脱体験」との区別は、率直に言えば、何ら客観的な証拠のない、純粋に主観的な「理念上の区別」、「机上の空論」であると判断するのが妥当と思う。しかし、これについては初期より留意しておくことを奨める。この区別は、理論的には、人間を物質的肉体と霊的な何らかの実体のある肉体による総合体とみる見解に立った場合に特に重要な問題となり、実践的には、自らの能力や幻視を過大評価することを防止する観点から、初期より留意することが有益であると感じる。
光体の育成。神智学協会などを通したチベット仏教に見られるような死後の体ないし媒体としての光体との関連性。
「人間は実にこのように、想起のよすがとなる数々のものを正しく用いてこそ、つねに完全なる秘儀にあずかることになり、かくてただそういう人のみが、言葉のほんとうの意味において完全な人間となる。」
プラトン。パイドロス。294C-D、藤沢令夫訳。
「三密一致は理論で到達し得る境界ではない。実際に修するに依ってのみ開け来たる道である。実修するということは、ただ無意味に念誦次第を順序にたどるということではない。そのためにそれを意義づけるために、念誦次第の構成、その一つ一つの印明の持つ意義を知悉しなけばならない。」
中川善教。中院流諸尊通用次第撮要 。P.ii。
「行法は平生に修してその内証を味得するにあるので、修しておれば無限の妙味がわき、おのずから一切教法の奥儀にも達することができるし、世間出世間に亘って広大な利益を受けるのである」
三井英光。加持祈祷の原理と実修:密教における神秘体験道。和歌山、高野山出版、S63。P.99。
下の引用は、直接には真言宗の修法に関して述べたものであるが、儀式を行うもの通用するものである。
また、儀式の「意義づけ」や「解釈」については、兄弟N.O.M.(ウェストコット)による飛翔する巻物15巻をその方針として尊重すべきである。
我が国では、「カバラ十字の祓い」「身体の光輝化」などと呼ばれることがあるが、どちらもカバラ十字の意義を限定して捉える誤りを誘発する危険のある名称であり、注意が必要である。
カバラ十字は、主の祈り(Pater Noster)(『マタイによる福音書』6:9-13)の頌栄部分(例:1662年版英国聖公会祈祷書 "For thine is the kingdom, the power, and the glory, for ever and ever."。1880年のプロテスタン訳「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」 。2000年のカトリック教会と日本聖公会の共通口語訳「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。」。)に由来が求めらえる。
カバラ十字は、その文言が生命の木と適合するため、利用に適したものであった。しかし、その採用に当たっては、更に踏み込んで、エジプト色の強い儀式を構成するに当たって、主の祈りがあまりにもキリスト教を連想させるため、主の祈りの代用品として、カバラ十字を用いた、と考えることも可能である。
であるならば、ミサ典礼や各種祈り、観想・黙想といったキリスト教会の伝える各種儀式において、主の祈りが担う役割をこのカバラ十字は担っていると考えるのが妥当である(筆者の私見である。)。そして、カトリックにおける主の祈りの扱いは「祓い」等には限定されない。カトリックにおいては、山上の説教(『マタイによる福音書』5-7)の中心にある「主の祈り」は、「全福音の要約」(テルトゥリアヌス)、「最も完全な祈り」(トマス・アクィナス)と考えられている。
さて、このカバラ十字の元となった頌栄部分は、ウルガタ訳聖書成立後のギリシャ語聖書に加えられたと考えられている。そのため、ウルガタ訳聖書には該当箇所がない。この頌栄部分が広がったのは、宗教改革において各国語訳聖書が作られたところ、その際に参照されたギリシャ語聖書が頌栄部分のあるものだっためと思われている。ただし、今日の聖書では、厳密なテクスト批判がなされており、聖書において頌栄部分は通常訳されていない。ただし、カトリックにおいてもミサ典礼文において、正文に続いて司祭が副文を唱え、その結びに、栄唱(頌栄部分)に相当する句("Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in saecula.(国と力と栄光は、かぎりなくあなたのもの)"。)を一同で唱える。
なお、主の祈りの頌栄部分については、Wikiの「主の祈り」の項に記載がある。本校作成に当たり、大いに参照させていただいた。
明確ではないが、 小、大、至高の少なくとも三種類があるようである。違いは、小は地のエレメントの五芒星みを用い、大は全てのエレメントの五芒星を、至高は大にエノク語の要素を加えたものと思われる。おそらくこの分類は六芒星儀式でも有効であったと思われる。しかし、至高の六芒星儀式は発見されていない。
この五芒星儀式における、小・大・至高。言葉の使い分けがどの時点であったのかは不明だが、全書下12ページ6行目以下の記述を見れば、「元素のタブレットを用いない通常の儀式」と用いる儀式の二つがある旨の記述がある。クロウリーは極めてまっとうなセンスで「通常の儀式」を紹介したと思われる。
小→クロウリーのLiber O及びリガルディの四巻本にもある。
大→クロウリーのLiber Oには記載があるが、リガルディの4巻本にはない。
至高→クロウリーのLiber Oには明確な記載がないが、リガルディの4巻本にはある。
六芒星儀式は、「小達人の儀式」において墓所において行われる「鍵の解析」(INRIの解析)が開始に用いられるように、本来黄金の夜明け団では、第二団すなわち達人の地下納骨所へのアクセス権を持つ者に教授されていた。この点は、この儀式の考察において重要である。この問題は従来あまり論じられていなかったが、David Shoemakerは"Living Thelema"(Anima Solis Books, California, 2013)pp.43-47において言及している。彼は、従来教授されていた方位(下記参照)は、墓所内で用いられるものであり、墓所外における日常の使用においては、五芒星儀式同様の配置を用いるべきとの主張をしている。
六芒星儀式の方位の問題についてのShoemakerがLiving Thelemaで紹介した見解は、黄金の夜明け団の5=6儀式を考えた場合は筋が通っている。しかし同時に、現代においてその見解を採る必要があるのか、疑問がある。個人的には、Zodiacにおいてレグルスを春分点に置くと仮定して星座で不動宮を見れば墓所の内か外で差は生じないのではないかとの疑問を感じる。
これを理解するためには、黄金の夜明け団のゾディアックに関する理解が必要である。
小六芒星儀式では、東に火、南に地、西に風、北に水が対応する。これは、ゾディアック理論において、起点を獅子座のレグルスに置く黄金の夜明け団の見解を理解によると思われる。火の不動宮(ケルビム宮)である獅子座を東の0度において、上から見て反時計回りにゾディアックを配置していけば、北に水の不動宮の蠍座、西に不動宮のみずがめ座、南に地の不動宮の牡牛座となる。(ここにおいて星座名を用いていておきながら、その性質を語るのに「宮」を用いているが、これは便宜上のものであると理解されたし。)
黄金の夜明け団においては、六芒星に合計6形態が伝わっている。その内、小六芒星儀式で使われるものは、四形態であり、リガルディの『全書』に掲載されている。
掲載されていない一つは通常ユニサーカル・ヘクサグラムといわれる形態であり、クロウリーが紹介したことで有名である。リガルディの『コンプリート』でも紹介されている。この形態は、一時期はクロウリーの発明と思われていた。しかし、既に黄金の夜明け団の文書に記載があり、クロウリーの発明でないことが明らかにされた。また、その形態自体もジョルダーノ・ブルーノ―の時代には既にあったとされている。
もう一つは、誰もがその存在を仮定しており、後掲の『マサースの最後の秘密』の十年以上も前に、NZ系ののWhare Atuのウエッブサイトで公開されていたRitual CのPDFファイルによりその存在が確認された下向きの三角形がふたつ用いられてもの(いわゆる火の六芒星をひっくり返した形態)である。これは、公刊書籍としては、おそらくファラルの『マサースの最後の秘密』が初めて紹介したものと思われる。
以上の6形態が黄金の夜明け魔術において検討されていたことが判明している。これらの形態は、黄金の夜明けにおいては、いずれも生命の木上に置いた形、すなわち、各頂点に太陽を除く惑星、中心に太陽を配置したものとして紹介され、それによって解釈される。
なお、ユニサーカル・ヘクサグラムを除き、他の形態は、古代の紋様として多く散見できる。それゆえ、「本来は」かなりプリミティブな象徴である。また、三角形のを二つ使った象徴としては、お互いに相手の底辺に頂点を持ってきた形の紋様が古代より存在する。しかし、そちらは黄金の夜明け団では採用されていない。
"水下降して火に潜る。火、盛んにして、水を覆う。水遂に変じて火となる。
火おさまりて灰となり、水復す。水火、地にて和合す。
地中の水火、変じて風となる。水火遂に分かる。
風天に達し変じて水となる。水、火に下降せんとす。"
By Fra. N□□□
1.概要。2.考察、2−1.〜下降と上昇〜、2−2.欠点;理論先行の弊害(接触と体幹)。 ...この分野に関しては、秋端勉『エレメンタ・マギカ』が非常に勉強になる。同書が出た以上ここで中央の柱の行法について論じる必要を感じない。したがって、そちらに譲る。同書を照してください
1. 神の姿をまとう技法の概要
神の姿をまとう技法は、端的にいえば、儀式において、儀式の実施者が、その担当する役に対応する神の役割を担うに際し、自らのオーラないし想像上の姿をその神の姿にする(神の姿を纏う)ことをいう。
その原型は演劇(神聖劇)における被り物であることに疑いはない。古代エジプトの葬祭などでも犬の被り物をしアヌビスを模した者が参加したという。日本人の誰でもが想像しやすいのは、「なまはげ」や能、そしてコスプレであろう。「役に入る」「役が降りてくる」「キャラクターになりきる」といった言葉は、神の姿をまとう技法にそのまま妥当する表現である。
また、秘密仏教の行法を参照すれば、神の姿をまとう技法は、多くの可能性を有する技法である。石山寺の名僧・淳祐(しゅんにゅう、じゅんゆう。890-953)らの整理した不動明王の19観などは、なるほど神の似姿はこのように諸々の観念とむすびつけるのか、と非常に勉強になる。黄金の夜明け団の系統で使用されるエジプト神格については、数千年前のものであり、実際の信仰も資料も1000年以上前に打ち捨てられ、不動19観のような整理は望むべきものではない。しかし、本来あるべき姿はどのようであるか、という理想像をそこに見ることができる。
2. 黄金の夜明け団での扱い
黄金の夜明け団のの0=0儀式の著名な以下のセリフには、神の姿をまとう技法についての黄金の夜明け団の立場が端的に現れている、といえる。
今一度、この位階の司官の数とその役職を宣言させん。されば司官を似姿とする諸力がここに集う者全員の天球と≪団≫の天球の中に再び覚醒せん。なぜなれば、≪名前≫と≪似姿≫によりあらゆる≪諸力≫は目覚め、再び目覚めるものなれば。
[...]ハイエロファントが「名前と似姿によりあらゆる諸力は目覚め、再び目覚めるものなれば」と言うとき、司官たちはそれぞれ≪神の姿≫をまとい、不可視の持ち場を覚醒させるのである。
なお、神の姿をまとう技法の原型は演劇と述べたが、オリジナルの黄金の夜明け団にはフロレンス・ファー(1860ー1917)などの役者も参加していた。彼女らが儀式の実行に当たり、演劇のノウハウを提供していたようである。
3. クロウリーの著作
リガルディの編集・出版(暴露)した同団の文書、いわゆる全書は、「骨だけ」という評価がある。実際に、神の姿をまとう技法についても、技法自体の記載は極めて少ない。そのような中で、骨の間を埋める、或いは弥縫するものとして、クロウリーの著作がしばしば参照される。黄金の夜明け団が実際に行っていただろう方法をやりたい向きには、参考になる。具体的には、Oの書などが参照されているようであるが、Oの書は訳書があるのでそちらを参考にして欲しい。同書において、クロウリーは賢明にも以下のように述べ、儀式魔術における重要な3つの実践項目の一つに、神の姿をまとう技法を挙げている。
There are three important practices connected with all forms of ceremonial (and the two Methods which later we shall describe). These are:
(1) Assumption of God-forms.
(2) Vibrations of Divine Names.
(3) Rituals of “Banishing” and “Invoking.”
4.いわゆるステーション(留)との視点について
上に挙げたものは主に「纏う」という行為に着目したものであった。黄金の夜明け団の文脈では、「纏う」という行為以外に、「持ち場」という言葉が現れている点に着目したとき、黄金の夜明け団における「神の姿を纏う」という技法のもう一つの側面が浮かび上がる。直接にはキリスト教の「十字架の道行」などのイエスの行いを記念する観想ないし祈りにおける「留」(分かりやすく言えば、特定の観念と結びつけられた「場」面)と、黄金の夜明け団のいう「持ち場」の親近性に着目したものである。日本ではIOSの秋端勉がこの点から解説をしている(不勉強で海外の著作でこの観点から論じたものを指摘できない。)。
簡単にいえば、黄金の夜明け団では、儀式場のフロアに生命の木を投影し、各ポイントに神々を布置して、それらを特定の順序で進みながら(道行き)、参入儀式などのストーリーを紡ぎだす。この「仕組み」が十字架も道行きと類似した点がある、というのである。直接的な関連性や因果関係を求めることは、論理の飛躍がある。しかし、傾聴に値するアイディアである。
なお、このような手法は実はかなりポピュラーなものである(迷路や地上絵などもそのような利用がされていたとの指摘もある。)。黄金の夜明け団や西洋魔術に唯一性や優越性を求める者には、独自なものではない、ポピュラーであると述べると、感情的反対を誘発するかもしれない。しかし、ポピュラーな技法であるからこそ効果も期待できる側面があることを併せて指摘したい。
5. その他
和書では、秋端勉の『エレメンタ・マギカ』は参考になる。そちらも参照されたし。
6. 最後に
全般的に、どうしても日本語で読める日本やチベットの仏教の資料を参考にすると、黄金の夜明け系統の技法は、いまだ「夜明け」の段階であり、「練り」が足りないのではないか、神の姿をまとう技法それ自体を取り出し、それに焦点を当てある種の霊的啓発を求めるとのアプローチに昇華してもよいのではないか(実際には「召喚」の儀式や行法になるだろう。)、そのような疑問を覚える。
したがって、「黄金の夜明け団」や「クロウリー」或いは「その伝統」、それ自体を追うことが目的であったり、それ追うことがが好きならばしょうがないか、そうではない、例えば霊的啓発などを第一の目的するならば、必要以上に「黄金の夜明け団オリジナル」や「アレイスター・クロウリ―」を追い求めることに意味があるのかは議論の余地があるように思う。
仏教との比較は、多数の僧侶を抱える仏教集団が1000年以上かけて練って磨いた成果なので、比較対象としてあまりにも巨大であるとの非難を受けるかもしれない。しかし、生死の問題や<存在>の問題の前には、そのような非難は戯言でしかない。
もし、霊的啓発を求める手段の一つとしてオカルトをやるならば、大胆に、工夫を重ねてこの技法を深めていくことが望まれことではないかと思う。
1.出現の流れ
原本は、紀元後350年ごろに書かれたもので、PGM V.96-172 "Stele of Jei the hieroglyphist in his letter"である。
1-1 学術の世界:
1852年のCharles Wyclliffe Goodwinの翻訳(the Cambridge Antiquarian SocietyでのFragment of a Graeco-Egyptian Work Upon Magic)→1899年、E. A. Wallis Budgeが別のバージョンをEgyptian Magicで紹介(→オカルトの世界に)
1−2 オカルトの世界:
(学術の世界→)〔黄金の夜明け団では、本儀式が正式なカリキュラムに取り入れられることはなかったが、団員らにはエジプト風儀式が流行っていたとされ、そこにおいて検討されたと予想されている。アラン・ベネットらが関与?〕→1903年、Aleister Crowley(1898年入団)のThe Goetia : The Lesser Key of King Solomon所収の予備的召喚(Preliminary Invocation)→1920年代、同Liber Samekh→1932年、Israel RegardieのThe Tree of Life(17章)→1939年、同編『黄金の夜明け魔術全書』所収の「高次天才の召喚 生まれなき者の儀式」(第三巻)(リガルディ作ということは江口之隆氏がHPで述べておられた。)
1−3 現在は、リガルディやクロウリーの作品にそこまでこだわらない場合には、より学問的に信頼できるPreisendanzの校訂本やHands Dieter Betz編集の翻訳本"The Greek Magical Papyri in Translation, Including the Demotic Spells"を参照して、「野蛮な言葉」などについて校訂していると思われる(いわゆるGDやAC式のものではないが、S. E. Flowers"Hermetic Magic"Pp.182−184など)。
2.生まれなき者はとはなにか?
2-1 そもそもはHeadless One(AkephalosないしAcephalos)。
首なし族や悪霊を指すこともあるが、魔術パピルス(PGM)では、最も力のある神の一つであり、宇宙の創造者、宇宙の神的な意味さえも有するようにもなった。古代エジプト宗教に起源を有するとみられているが、ヘレニズム時代のエジプトでとても一般的になり、オシリスやベサスと関連付けられた。詳しくはググってみて欲しい。
2-2 黄金の夜明け団でいう「生まれなき」とはなにか?
黄金の夜明け団系統では、HeadlessをBornlessと言い換えている。ひょっとしたGeorges Batailleなどが使用していたので回避した可能性もあるが、詳細は不明である。
ここでは、ごくごく一般的な検討方法として、Bornlessという単語の黄金の夜明け団の資料での使用状況を見てみよう。「黄金の夜明け魔術全書」での使用は、上記「生まれなき者の儀式」を除けば以下の通りである。非常に少ないことが発見できる。なお、コンプリート版においてもリガルディが加えた文書に追加的に発見されるだけである。黄金の夜明け団での「生まれなき」との言葉で表現したかったものは、二つ目の引用文が全てであろう。
2-2-1 Z1入場者 特別序説
…されば宇宙は形式を帯びたる。さればここより神々は到来したる。生まれなき彼方の幾永劫。されば声は振動されたる。されば名前は宣言されたる。…
時の生まれざる者とは、アツィルト界のケテルの上にある神聖なる光のきらめきである。こういった至高の領域では、アイン・ソフは、われわれにとっては消極的存在であるが、ここでは極めて積極的である。ここより神々、≪声≫、幾永劫、そして名前が生まれる。
志願者の魂はふたたび粗雑なる肉体に戻る。そして志願者は、かなたの生まれざるもののなかにある、口にすべからざる栄光の法悦に浸る。瞑想をしながら、立ち上がり、天に両手と両目と希望をあげ、低い声で神秘なる力の言葉をつぶやく。
彼は自らの<天使>と<エン・ソフ>とを同定し、ひいては<ケテル>とも同定する。すなわち、<ヌイト>の際限なき<身体>における<ハディート>の定式化の一つである。
3.具体的な儀式については、各人資料を参照して欲しい。また、ここの野蛮な名前ないしフォーミュラエについては、割愛する
錬金術は、実際に工房(ラボラトリー)で作業する錬金術と、錬金術の過程を心理的過程と捉える心霊的(スピリチュアル)な錬金術(spiritual alchemy.)に分類できる。黄金の夜明け系においては、通常後者が問題となる。
[Contents Top] 黄金の夜明け団のカリキュラムには、いくつかの占術が組みこまれています。
「占い」を軽視するわけではありませんが、オカルティズムでは占術の背景にある形而上学、抽象論、原理的なお話が大事です。出た卦に対して直感的に占断を下せる、あるいはリスト化された対応表から適切なものを選択して提示できるだけでなく、なぜそのような結論に至ったかを「形而上学的用語に翻訳」(神秘のカバラ―20:18)できるようになるのが好ましい、といってもよいかもしれません。
もちろん、物事を観察しそこに「兆し」を見つける観察力、観察結果から「天啓」を得る直観力、この両者を磨くのも占術の重要な目的の一つです。
なお、漢籍から占いについて一つ上げるならば、これでしょうか。読み方はイロイロあるでしょうが、実践的オカルティストとしては、宇野哲人『論語新釈』(講談社、1980)PP.397-399の解釈がおすすめです。
子路第十三
子曰、南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫。善夫。不恆其栫B或承之羞。子曰、不占而已矣。
西洋オカルティズムは何か?、そう問われた場合、「星の学問」であると答えるのは、間違っていないでしょう。西洋オカルティズムにおける女王は紛れもなく占星学です。ゲオマンシーやタロットなどの占術の理論の多くは、アストロロジーそのもの、或いはそこからのアナロジーである、ということも可能です。天体の巡りという、宗派に関係なく、誰しもが同意する、最も客観的を対象を扱うオカルティズムです。
なお、市井の「占い」と区別するため、私たちの扱う領域を、特に秘教心理学、Esoteric Astrologyと称することがあります。この言葉は、アラン・レオやアリス・ベリーの著作名やアン・デイビスの講座名などで用いられています。概ね、人や集団のスピリチュアルな進化に焦点を当てた占星学、という意味で用いられています。今日の感覚では、深層心理学を用いた心理占星術(Psychological Astrology)に近いといってよいでしょう。
また、万物照応、上下一如、アナロジー(類推)の発想からは、星の世界である事象は、「地上や、人との関係、にある」と同時に、「個人の心の中にある」そして「より上層の世界でもある」ということを忘れてはいけません。アナロジーの外延が遠くにあることが、私たちのアストロロジーの特徴といえるでしょう。
なお、占星術(学)あるいは占星術師(占星学者)、占星術を信じる人々については、古来より強い影響力が社会に認められるため、きわめて強い非難が向けられている。非常に説得力のある批判から、皮相な批判まで、非難は多くある。ここでは参考に、近代のちょっと古めの学者らによる批判を例として挙げたい。あなたはこの批判に対し有効な反論を提出できるであろうか。
〔…〕多くの人は、或はこの〔複雑な命題を段階を追って単純なものに還元し、そののち、全ての中で最も単純なものの直感から始めて、同じ段階を経つつ、他のすべてのものの認識へ登り行こうという、真理を発見するための方法の〕規則の命ずることを顧みず、或は全く知らず、或はそれを必要とせぬと思ひ込んでゐて、屡々全く無秩序にきはめて困難な問題を吟味するので、彼等の為すところは建物の最低部から頂きに登るに当たりそのために設けられた階段を或は蔑ろにし或は気付かないで唯ひととびで達しようと努める、に同じいと私には思われる。すべての占星学者のやることがそれである。彼等は諸天の本性を知らずその運動を正確に観察したこともないのに、それらのものの作用を自ら示し得ると恃んでゐる。
世界を欺こうという計画を持つ人はだれでも、喜んで欺かれようとする人たちを確実に見出すのである。どんなにバカげた、愚か者でも、必ず自分に見合った精神の持ち主に出会うのである。占星術の愚行に夢中な人をたくさん見かけるし、真面目な人たちでもこの主題を真剣に取り扱っているのだから、人はもはや何事についても驚くべきではない。天には、ある人たちが好んで天秤座と名づけたある星座がある。それが風車のような形をした天秤に似ているからである。天秤は正義の象徴である。それゆえ、この星座の下に生まれた者は正しく公平になるであろう[と言うのである]。黄道帯には他に三つの星があり、それらは牡羊座、牡牛座、山羊座と名づけられている。それらはゾウ、ワニ、サイと呼ばれることもある。牡羊、牡牛、山羊は反芻する動物なので、月がこの星座の下方にあるときに薬を飲む者は、それを嘔吐する危険性があるというのである。こうした推理がいかに常軌を逸していても、必ずそれを言いふらす人がおり、それに説得される人も入るのである。
タロットの項はカバラの項にあるものと同じです
主として、インターネットから収集された非常に膨大な電子資料(電子図書や音声・映像データ)により構成されたアーカイブ(書庫)。研究会のレファレンスに使用されています。権利関係が不明の資料も含まれるため、一般公開は予定されていません。現在個別の問い合わせにのみ応答を行っている。
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