日誌について


 現代の西洋魔術の世界では、日誌(日記)を付けることが推奨されています。この日誌は、Magical Diary、魔術日誌、魔術日記、魔術記録などと呼ばれます。
 魔術儀式や瞑想を行った際に、その感想などを記録したものを指します。

人に見せる予定がない場合

 この日誌が個人的記録であるときには、定められた形式はありません。原則として、どのような形式で、どのような内容を欠こうと自由です。ただ、後に見返しいたときのために、年月日、天候、体調、実践時刻、実践した項目、感想等を記入するのが一般的でしょう。
 天候については、月齢、星の配置等を、どこまで書くかは個々人の自由ですが、データ重視の方は統計を取る上で記載しておくのが便利かと思います(この場合、端的に結果について、良・不良と分類をしておくと便利です。)。もっとも、継続して記録を採ることが大事ですから、実際にやってみて、無理のない様式を採用するのが、一番かと思います。
 また、日誌には、日常における気づきや読んだ本、或いはショックを受けた事件など、雑多にわたる事項を記入することもあります。

人に見せる予定がある場合

 記録の提出を義務付ける魔術団体に所属する場合などは、その団体の形式に従う必要があります。形式を守ることはお互いの時間を尊重することにつながります。
 また、そのよう場合には記録が第三者に閲覧される危険性がありますので、余りにも個人的内容を記載するの避けた方が良いかもしれません。加えて、あまりに雑多なことを書くと、担当者(複数の学生を担当している場合も多いでしょう)の負担となりますので、その点にも注意が必要です。

記録を採ることの意味

 ところで、この日誌はなぜ取るのでしょうか。
 これについては、いろいろな本に理由は書いてあるかと思いますが、私は大きく以下の3点と考えています。
 まず、第一に、記憶の補助すなわち備忘のためです。記憶を保持するのは意外に大変です。また、データ重視の方は、天気や月齢や天の配置によって、いかなる場合にいかなる作業が良好な結果を得るか統計を取ることが可能です。
 第二に、実践の体験を記録することにより、一度自分の心から取り出して、整理し、感情の爆発などを押さえる効果を期待することができます。オカルトに興味を持つ方は、内面に激しさを持っている方が多い。儀式等により高まった内面の感情により日常生活に支障をきたさないためにも、日記をとることによるクールダウンを習慣づける事が大切です。
 第三に、自分を鼓舞するためです。日誌を、孤独で、苦難の多いオカルトの長い旅路を共にする唯一のパートナーと称する人もいます。くじけそうなとき、歩みが止まったとき、自分はどのような旅路を辿ってきたか、それを確認することにより心が慰められ、またかつての情念を思い出し、再び歩き出す人も多いです。

 なお、この問題に関しては、ダイアン・フォーチュンのオカルト小説『海の女司祭』の第一章の冒頭なども参考になりますので、以下にやや長く引用したいと思います。この小説は、江口之隆氏が他のいくつかの彼女の小説と併せて、翻訳を同氏のサイトのダウンロードコーナーで無料公開しています。以下の引用も、同氏の翻訳を使用させていただきました。心より感謝を表したいと思います。なお、引用中の強調は筆者によります。

[...]私はかなり詳細な日記を長年にわたってつけてきたのだ。観察は大好きだが、想像力に欠けているから、[...]自分の日記が文学であるなどとはこれっぽちも思ってはいないが、日記はある意味で精神的安全弁である。私の日記も、緊急時には、その役を果たしてくれる。日記なしではしょっちゅう爆発していただろう。

 冒険は冒険好きの者にやってくる、と言われている。しかし扶養家族を抱えた人間が 冒険を求めることなどできやしない。[...]冒険は私には無縁の存在であり、わが身に危険が及ばぬ他人の冒険だけがよろしいとされた。したがって、安全弁も必要になるのだ。

 昔の日記は何冊も重ねられて屋根裏部屋の錫製トランクにしまってある。ときどき拾い読みするが、退屈な代物である。書くことだけに楽しみがあったのだ。田舎の実業家の目を通して見た事物を、年代順に客観的に記しただけなのだ。酒にたとえるのはよくないかもしれないが、実に弱いビールというところだ。

 しかしある時点から変化が生じている。主観的であろうとすることが目的となっているのだ。どこから、どうしてそうなったのかはわからない。あのことすべてをはっきりさせようという考えで、私はその後の日記を系統だてて読みはじめ、全体をまとめて書き下ろそうとしてみた。それは奇妙な物語となり、自分でも理解しているふりをしたくはない。書いているうちにはっきりするだろうと願っていたのだが、そうはならなかった。実際の話、もっとややこしくなっただけである。日記をつける習慣さえなかったら、たいていのものは無難に忘却のかなたへ消えていったことだろう。そして意識に残ったものは既成概念に適合するように再構成される。不適合なものはこっそりとゴミ箱に捨てられるという仕組みである。

 しかし白地に黒く書き記されたものはそういうわけにもいかず、私はあの出来事の全体を直視するはめになった。あれにどういう価値があるのかわからないが、とにかく記録しておくことにする。あの出来事の価値を判断するのにもっとも適していない人間が 私である。私には、あれが思想史における奇妙な一章であるという気がする。文学的にはともかく、資料的には興味深いものだろう。あれを経験して学ぶところが大であったように、書き下ろすことからも学ぶものがあれば、それで本望である 。

媒体の選択

 では、日誌をどのような媒体にどのような方法で記録するべきでしょうか。
 現代では、概ね、(1)紙に手書き、(2)PC等の電磁的記録媒体に保存する、の二つに分けることができるでしょう。後者については、プリントアウトするか否かでも違います。
 どのような方法がいいのか、一概には言えません。これも、個々人のライフスタイルに合わせて選択するべきでしょう。
 ちなみに、私個人は、PCを起動させる手間を惜しむ、図などを書き入れることが楽、タイピングよりも、手書きの方が、体を動かしている気がし、体験や感情を媒体(記録、メディア)に保存しやすい気がする、等の理由から、手書き派に属しています。

 みなさんが、どのように日誌を取るか分かりませんが、記録すること自体に意味があるので、どのような方式方法であれ、ぜひとも、みなさん、とり入れてください。

 その他、日誌の具体的書き方については、秋端『実線魔術講座』やバトラー『魔法修行』などに、より充実した記載があります。詳しくはそれらをご覧ください。
 また、興味がある方は、スティーヴン・スキナー編江口之隆訳『アレイスター・クロウリーの魔術日記』(クロウリー著作集別巻2、国書刊行会、1997)が発行されていますので、そちらもご覧ください。フォーマットは特にない、ということを理解されることかと思います。ただ、クロウリーは薬物中毒者で躁鬱の傾向があるので、記録に飲み込まれないようにやや注意が必要です。


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作成者: TRK, JAGD
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