魔術の定義


 魔術(magic)については、その領域を確定し、概念を定義することは困難である。奇しくもある批評家が述べたように「宗教」に相応しい価値がないと考えたもの(ゴミ)を投じてできた「ゴミの山」であるからだ(註8参照)。
 また、定義することにいかほどの価値があるのか、根本的な疑問もある。

 しかし、多くの方は、魔術を魔術として語り、そこになにかを――多くの場合は幻想であるが――投影をしている。そのような幻想を取り除き、あるいは議論の場を整えるために、魔術の定義を語るのが、クロウリーやバトラーをはじめとした諸先輩方の議論の進め方である。
 そこで、ひとまず諸先輩方に従い、少し魔術の定義を考えてみたい。

 また、魔術の定義を考えることは、魔術というものの背景にある何らかの文化的・思想的潮流あるいは人の欲求を探る一助、あるいはよく議論されることもある宗教と魔術との関係を考える上において、何らかの価値を見出すことができると予想される。

 多くの方には今更の話であろうが、これから学ばれる方に、本稿が魔術の定義を考える契機になれば幸いである。


アグリッパによる定義

 まずはじめに、16世紀以降の主要な魔術の教科書であったネテスハイムのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ(1487-1535)の『オカルト哲学』第一巻第二章の魔術の定義を紹介する(註1)(下線については筆者、以下同じ。)。

「魔術は、もっとも崇高なる神秘にあふれた、驚くべき力についての学問であり、もっとも神秘的なる事柄とその本質、力能、性質、実体、価値に関するもっとも深淵な観想であるとともに、自然のすべてに関する知識を含み、事物相互の差異と一致についてわれわれを教え導いてくれるものであり、事物同士を組み合わせたり、事物をそれ以下の適合するものへと適用することによって諸事物の力を合一させ、より高貴なものの力能や力を用いて諸事物を完全に邂逅させ織り合せることによって、いくつもの驚くべき結果を生み出すものである。それはもっとも完全で中核的な学(scientia)であり、神聖であるとともに、より崇高な種類の哲学というだけでなく、もっとも優れた哲学すべての絶対的な完成なのである」
 これは、いわゆる自然哲学に則った定義といえる(註2)。
 注意深く、非常に注意深く、定義の一つ一つの文言に注目して欲しい。


レヴィ、マサース、クロウリー、フォーチュンによる定義

 次に、黄金の夜明けに関係する現代オカルトからレヴィ、マサース、クロウリー及びフォーチュンの4名の定義を紹介する(註3)。

  1. エリファス・レヴィ(1810-1875)
    「魔術とは、賢者の時代から伝承されてきた自然の秘密を扱う伝統的科学である」
  2. マグレガー・マサース(1854-1918)
    「魔術とは、自然の秘密の諸力を制御する科学である」
  3. アレイスター・クロウリー(1875-1947)
    「魔術とは、主体の意志のままに変化を引き起こす科学、技術である」
    "Magick is the Science and Art of causing Change to occur in conformity with Will."(註4)
  4. ダイアン・フォーチュン(1890-1946)
    「魔術とは、意志のままに意識に変化を起こす術である」
    "the art of causing changes in consciousness at will"(註5)

 自らの定義をたびたび著書で使用しているクロウリー以外の者が、どの程度意識して上記の定義を作成したか不明であるが、四種の定義を比較し、用語の選択に注目して欲しい(註6)。

 例えば、フォーチュンを除いた三者には「科学」(science)との用語が用いられている。西洋の伝統的なサイエンス(science)とアーツ(arts)の使い分けが背景にあると思われる。サイエンスは自然といった人の作らざるもの(神の被造物)を対象とするものであるのに対し、アーツは人の作ったものを対象とするものと考えられている。
 また、レヴィとマサースにあった「自然の秘密」という言葉が、クロウリーには欠けている。ここにいう「自然」はいわゆる自然哲学の文脈で使用されている「自然」であろう。クロウリーにおいてその自覚があったか否か不明であるが、クロウリーの世代では旧来の「自然哲学」或いは「自然魔術」を定義の上でさえも維持することができなくなった証左といえる。
 さらに、動詞にも注目したい。ロマンティックな文筆家であるレヴィは単に「自然の秘密を扱う」としているが、マサースは「自然の諸力を制御する」とより積極的である。他方、クロウリーとフォーチュンは、前述のように「自然」との語を用いず、加えてマサースが「自然の諸力を制御する」としたところ、「自然の諸力」といった原因や「制御する」といった行為からではなく、単に「変化を引き起こす」との効果から定義を述べている。とする。そして、クロウリーとフォーチュンは、マサースが「自然の諸力を制御する」としたところ、「自然の諸力」といった原因や「制御する」といった行為からではなく、単に「変化を引き起こす」との効果から定義を述べている点も面白い。
 そして、最終的にはフォーチュンの定義ではサイエンスという言葉さえ削られている。

 このような定義の変遷で、一番わかりやすいのは、「自然」「科学」との言葉がクロウリーからフォーチュンに至る過程で定義から削られた点である。
 近代マジック、ヘルメス主義は、15世紀ルネッサンス(例えば、1463年,フィチーノ『ヘルメス文書』翻訳。)に端を発しているといえる。そこでは、魔術師ほぼ自然哲学者と重なり合い、魔術師は、単に自然に関する知識に通暁するゆえに、そうでない者からは不可思議と思われる事象を引き起こしている、と理解されていた(註2参照)。換言すれば、いまだ自然科学と魔術は重なり合っていた。そのような魔術に対する捉え方において、「自然」及び「科学」という言葉は、魔術の定義に欠くことができない、極めて重要な単語であったはずだ。
 しかし、クロウリーにおいて「自然」が、フォーチュンにおいて「科学」が抜け落ちたのである。そこでは少なくとも定義の上では、魔術から、完全に(自然)哲学と(自然)科学が排除されたのである(註7。註4参照。)。

 これらは、実際の作業にはほとんど関わりがないかもしれないが、魔術というものをどのように考えるか、その底流にある潮流を理解する上で、多少なりとも参考になり得るだろう。

 なお、論理学の教科書等をみると、定義は、記述的(descriptive)定義と唯名的(nominal)定義・規約的(stipulative)定義の二つに分類できる。記述的定義は、既に用いられている名辞(term)(概念(concept))の内包を明瞭にし、そのクラス(外延)を確定する手続きであり、真偽の区別があるものである。これに対し、唯名的定義・規約的定義は、新しい名辞の導入手続きであり、在来の冗長な表現の簡潔化とか、新発見の現象や法則の命名に用いられる。導入される名辞としては新名辞を作ることもあるし、また古い名辞に新しい内包を与える場合もある。いずれも使用者が規約によって作るのであるから、真偽の区別はないものである。
 ここで語られる定義は、後者であろう。
 真偽の区別がないものであるから、必要以上に魔術の定義の問題――これは同時に魔術の外延を定めることで、隣接する神秘主義、宗教(註8)、科学等と魔術とを区別できるかという問題であり、「進歩的な」人物には非常に重要な問題でもある――に、拘泥する必要はないだろう。


(1)訳文は、酒井明夫(1950-)『精神科医からのメッセージ 魔術と狂気』(勉誠出版、2005)113頁による。また、下に参考に挙げた英訳はタイソン編集の"Three Books of Occult Philosophy"(Llewellyn, 1995)(p.5)による。

Magic i s a faculty o f wonderful virtue, full of most high mysteries, containing the most profound contemplation of most secret things, together with the nature, power, quality, substance, and virtues thereof, as al so the knowledge of whole nature, and it doth instruct us concerning the differing, and agreement of things amongst themselves, whence it produceth its wonderful effects, by uniting the virtues of things through the application of them one to the other, arid to their i nferior suitable subjects, joining and knitting them together thoroughly by the powers, and virtues of the superior bodies.
This is the most perfect, and chief science, that sacred, and sublimer kind of philosophy, and lastly the most absolute perfection of all most excellent philosophy.
 なお、著名なオカルト哲学であるが、その評価については、酒井の紹介する科学史家ソーンダイクの評価などは「ボロクソ」である。また、酒井はドナルド・タイソンなどにも触れている。タイソンは私たちの間でも有名なオカルト作家であるが、私の知るオカルト界隈では彼の関与した『オカルト哲学』の英訳については、入手しやすいというのが最大の評価であるようだ。

(2)

自然哲学(しぜんてつがく、羅:philosophia naturalis)とは、自然の事象や生起についての体系的理解および理論的考察の総称であり、自然を総合的・統一的に解釈し説明しようとする形而上学である[2]。自然学(羅:physica)と呼ばれた。自然、すなわちありとあらゆるものごとのnature(本性、自然 英・仏: nature、独: Natur)に関する哲学である。しかし同時に人間の本性の分析を含むこともあり、神学、形而上学、心理学、道徳哲学をも含む。自然哲学の一面として、自然魔術(羅:magia naturalis)がある。自然哲学は、学問の各分野の間においても宇宙の様々な局面の間でも、事物が相互に結ばれているという感覚を特徴とする。現在では、「自然科学」とほぼ同義語として限定された意味で用いられることもあるが、その範囲と意図はもっと広大である。「自然哲学」は、主にルネサンス以降の近代自然科学の確立期から19世紀初頭までの間の諸考察を指すといったほうが良いだろう。自然哲学的な観点が、より専門化・細分化された狭い「科学的な」観点に徐々に取って代わられるのは、19世紀になってからである。
(Wikipediaより。2016年04月20日採取。https://ja.wikipedia.org/wiki/自然哲学)

(3)訳文は、多くの者が使用していると思われる秋端勉著『実践魔術講座』による。

(4)彼はこの定義をたびたび使用しているが、直接は"Magick Without Tears" (Llewellyn版、1973)からP.27から引用した。彼の魔術に関する説明を読むと、自然哲学的な見解が含まれており、上記定義から(自然)哲学的な要素を排除を行っているものの、自覚的に自然哲学を排除したものではないと思われる。

(5)Walter Earnest Butler(1897-1977)の"Magic, Its Ritual, Power and Purpose "(Aquarian 、1975)のP.12より。なお、バトラーは、同書P.11で"The art of applying natural causes to produce surprising result"と述べる。

(6) これは訳語を当てる場合も同様である。近時artについて「技術・術」の代わりに、「芸術」という訳語を当てる例も増えている。これもその一例であろう(例、HP氏の日記で見かけた記憶あり、東京リチュアル出版の『まほうのかがみ』など)。テクスト読解という面では、やや意図的な誤訳ではないかと思う。

(7)クロウリーにおいて、ある意味タブーであった「宗教」が魔術の世界で出てきたのはこのように見れば必然であったかもしれない。婢(はしため)である「哲学」が後退し、家内より主人たる「宗教」が現出したのである。その後、魔術の領域で、より宗教性を求め、ペイガンやウィッカが宗教と立ち上がったのは、キリスト教へのアンチテーゼという以外にも、魔術そのもの孕まれた必然だったのかもしれない。

(8)魔術と宗教の関係については、ジョン.G.ゲイジャー(志内一興訳)『古代世界の呪詛版と呪縛呪文』(京都大学学術出版会、2015)のP.36にある「人間の経験を理路整然と定義する分類項目としては、「魔術」という項目は存在しない。」との指摘は参考に値する。ゲイジャーは続けてある批評家(ペッテション)の以下の言を引いている(なお、原文の傍点は下線で表現した。)。

「魔術」と「宗教」の関係についての科学的論争は、キリスト教的に理想化されたパターンにのっとり宗教を定義することによって生み出された、人工的な論争である。人間の信仰や儀式を構築する要素のうち…理想化された類型としての宗教と相容れないものは、「魔術」と呼ばれた(そして今も呼ばれている)。「魔術」は「宗教」の中で十分に「価値ある」ものではない要素のための、ゴミの山となった(そして今でもなっている)。


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作成者: JAGD
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