魔術と神秘主義の違い(アンダーヒルの説)


 魔術と神秘主義、その区別はむずかしく、一人の中でそれは両立し得ると、私は思うし、区別していない人もいるように思う。
 ただ、一般論として、両者は区別されることが多い。どのように区別されるかを知っておくことは、私たちにとっても、良いことだろう。

 そこで、今回参考に、一時期黄金の夜明け団にも参加していた、著名な神秘主義に関する作家イーヴリン・アンダーヒルの見解を紹介したい。
 アンダーヒルの体表的著作『神秘主義』(Evelyn Underhill "Mysticism", London, 1911)は、残念ながら完全訳ではないが、その第二部について、門脇由紀子他訳による翻訳『神秘主義:超越的世界へ到る途』(ジャプラン出版株式会社、1990年)が利用できる。同書「訳者解説」においてアンダーヒルによる「神秘主義と魔術の違い」の見解が述べられているので、そこを引用する(PP.4-5)。彼女の説明に付け足すことは、特にないだろう。
 興味のある諸君は、同書を参照して欲しい。なお、原文については、アンダーヒルの著作を紹介する団体のサイト(Welcome to the Evelyn Underhill Association)のアナウンスを参照して欲しい。

 以上、神秘主義が理論的なものでなく、実践的なものであることを述べてきたが、同じ実践的なものでも神秘主義といわゆる魔術【現在、宗教学・人類学で用いられる「呪術」とは別個の、古い概念】とは違うことを、アンダーヒルは次のように説いている。
 魔術ならびに魔術的宗教の目的は、目に見える私たちの「現実の」世界を、それを超えた力によって変化させたり、説明したりすることである。したがって、魔術に携わる人々は神秘家同様、この「現実の」世界からそれを超えた世界へと向かうのだが、その後そこで得たものをこの世界での能力や徳、幸福や知識の拡大のために役立てようとする。一方、神秘家にはこのような野心は全くない。神秘家としての歩みの最後の段階で彼らは霊的交流によって直接に神を知るのであり、この<絶対者>に対する無媒介的直観は他のすべての望むを焼失させる。神を所有する者は他に何も要らないのである。このような意味で、神秘主義の目的は完全に超越的、精神的なものと言える。
 たましいがかしこにおもむいて、すでにかしこに到着し、かのものを分有するようになると、その時は生活が一変して、そのような生活状態におかれることによって、真実の生命を賄ってくれる者が直接その場にいることを知るようになり、もはやそれ以上何も必要としないようになる。否、むしろ反対に、他のいっさいのものを脱ぎすてて、ただそれひとつだけに立ち止まらねばならなくなる。すなわち我が身に纏う、その余のいっさいの残りものは、これを断ち切って、そのものひとつだけにならなければならない(プロティノス『エネアデス』VI9.田中美知太郎訳)。
アンダーヒル『神秘主義』(「訳者解説」、pp.4-5)。強調は筆者による。当該『エネアデス』引用部分は、岩波文庫『善なるもの一なるもの』43、44頁、世界の名著15『プロティノス ポルピュリオス プロクロス』142、143頁に相当する。

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作成者: TRK
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