神話とは、一体何か。改めて質問されて、綺麗に答えられる人は少ないのではないだろうか。
松村(1987)によれば、神話とは
「世界や人間や文化の起源を語り、そうすることによって今の世界のあり方を基礎づけ、人々には生き方のモデルを提供する神聖な物語」(p.3)である。
神話、宗教、儀礼は起源を共有しており、密接に関係する。これらについてはネットでも検索してみれば有益な記述を見つけ出す事ができる。
この文脈では儀式と神話は、儀式において神話が語られ、また神話から儀式が作られるという双方的な関係にあるといってよいだろう。互いに互いを確認しあい、発展・強化させる関係といってもよい。
ここでは魔術は儀礼と単純に等価に扱ってもよい。
しかし、イェイツの言葉「魂の知性に対する革命」(キャヴェンディッシュ『魔術の歴史』p.241)を思い出したとき、私は魔術を現代科学(知性)によって観察者として「世界」と切り離された人間が再び「世界」(K-21=32)と結びつこうとする運動であり、世界や人間や文化の起源を擬似的に体験し、そうすることによって今の世界のあり方を基礎づけ、人々には生き方のモデルを提供する実験的な試みと定義してよいのではないかと感じる。魔術と神話は表裏の関係にある。
私が魔術を「神話を生きる」と表現するときは上記のような考えを前提としている。
このように魔術と神話の密接な関係を考えた場合、単純な神格の研究を超えて、神話そのものを学ぶ必要性を認める事ができるのではないだろうか。では、手始めにどのような入門書に当たるべきであろうか。
魔術の関係者に限らず、日本人には古くから舶来品を尊重する傾向がある。しかし、日本の学者のレベルが外国の学者と比較して著しく劣っているという事実は存在しない。
逆に神話のような、その国家や民族、人種といった歴史や日常感覚やその集団特有の傾向に密接する分野の入門書については、卓越した作品を除いては、条件がより近接する日本の学者の著作を参照することが正しい理解にとって適切のように思われる。
また、入門段階では大まかな概要を把握することが重要であると思われる。
そこで、日本人の学者の入門書より、定価が安価、分量が少ない、一定の参考文献が示されている、内容がスタンダードであるという条件を勘案し、手頃そうなものを二三紹介したいと思う。
大林、吉田らはそれぞれ新書であるが、松村(1999)はハードカバーである。値段的には新書が手軽であろう。
どの本も「フレイザーと神話儀礼学派」が公理のように扱われていた時代の神話学ではない。魔術関係者にはフレイザーの『金枝篇』で時代が停まっている者がいる。
そのような者は、吉田(1987)の「神話学が…、短期間に驚くほど大きな変化を遂げたために…四半世紀以上も前に書かれた書物の大部分が神話そのものの正しい理解のためには、はっきり言って役に立たない。なぜなら資料としてはなお貴重な価値を持つ本でも、そこに述べられている神話についての考えそのものは、現代の学問レベルから見れば完全に的はずれ、神話の本質を見誤っていたと言わなければならぬものだからだ」(iii)とのコメントに素直に耳を傾ける必要がある。
たとえ、クロウリーらの世代に『金枝篇』が最新の神話に対する学問的アプローチとして重視されていたとしても、今や時代遅れである。それをいつまでもクロウリーが参考文献に挙げているからといって強調することは、返って先輩らの精神を裏切る事になる。