アーネスト・ウッド 宮崎直樹訳
瞑想入門:緊張なき精神集中への道.昭和55年
たま出版、平成三年、新装版


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 瞑想についてまた良書に出会った。今回は購入価格100円。知人との約束で瞑想について調べる事となった矢先に、たまたま古本屋で見つけて購入したものである。たま出版で多少「どうかな?」と思ったが、よさそうなので購入した。宝くじは当たらなかったが今年もオカルト関係の古本は当たるらしい。当たりである。

 原書はEarnest Wood. Concentration: An Approach to Meditation.[1908?]. The Theosophical Publishing House, 1949(第9インド版)。緒言をアニー・べサントが書いている神智学系の本である。第9インド版の段階で訳書を含めて25万部発行と著者と自負を見せているので、多分この手のの本としては、広く読まれているようだ。
 初版が1908年ごろですからGDオリジナルへの影響はない。参考文献表を見ながら後継者らの著書への影響があるのか考えるのも少しは楽しいかもしれません。
 訳者はあとがきで訳せば「精神集中――瞑想への一アプローチ」となるが、このような邦題になったのは出版者の判断で、「訳者はこれに全く関与しなかった」と断り書きをいれているのが笑える。確かにWoodの内容を伝えるには、直訳の方が正しい。しかし、「緊張なき」というのは色々な意味でなかなか微妙な言葉だ。内容を見て落胆した人が大部分だろう。

 さて、著者のEarnest Wood (1883-1965)であるが、訳者あとがきによれば、イギリスのマンチェスターで1883年に生まれた。教育関係の仕事に携わっていたが、インドが主な活動の場であった。第二次大戦後はアメリカに渡り、サンフランシスコのアジア研究米国アカデミーの学長となり、テキサス州のヒューストン大学にも関係した。神智学との繋がりは彼が19歳で神智学協会の会員となり、数十年に渡り積極的に同協会で奉仕活動をし、自由カトリック教会の大僧正でもあったレッドベター( C. W. Leadbeater )の秘書も勤めた事もある。Wood自身も神智学協会の大指導者の一人である。1965年に彼が死去した際、神智学協会評議員はアメリカン・テオソヒスト誌同年11月号で彼に賛辞を送り、長年の労をねぎらった。

 彼の著作は、約三十冊だが、特に著名なのはThe Seven Raysいわゆる「七つの光線」に関する著作ではないだろうか。Googleなどで検索すると、彼の名前はこの著作との関連で取り扱われている様に思われる。7つの光線に関しては魔術関係者にもかなりの影響のある理論である。ただし、邦語ではアーネスト・ウッドを検索するとミトラ関係のページで辿りつ。
 また、訳者は彼のMind and Memory Trainingも良く読まれていると述べているが、こちらはネットにはほとんど情報がないようだ。内容に興味がある分野である。今回書名を知ったことに必然を感じる。機会があったらぜひ購入したい。私はこの作品名を文献カードに書き写した。
 他にはパタンジャリの『ヨガ・スートラ』を翻訳したPractical Yoga: Ancient and Modernが彼の主著である。
 私はこれらが当時のオカルティストによってどの程度引用されているのか、参考文献として紹介しているかは知らない。ご存知の方はぜひ教えて欲しい。このような情報は基礎研究としてとても重要だ。(WEBは著書『魔法修行』42ページにて「アーネスト・ウッズ教授が精神集中について書いた本」とWoodに言及している。03/10/17

 さて、問題の内容だが、さすがに神智学的な見地も見うけられる。しかし、全体的に実際は実践書としてみれば非常に厳しいテキストだ。もちろん古代中世の密教書などに比べると、諸条件の面で非常にやりやすくなっているのは言うまでもない。
 著書はしがきを見ると、学習教程としては、六ヶ月コースとして考えているようだ。具体的な日程表としては、近年の著作ならばモデルを付けるのが心理学者らの著作で多いと思うが、時代であろうかそこまでサービス精神は旺盛ではない。自分である程度考える必要があるが、頭から順番に行なっていけば良い。履修後は自らに必要な瞑想をさらに続けていく事になるだろう。
 実践内容としては原題にあるようにConcentrationを中心に瞑想を扱っている。瞑想の訓練についてもよく考えられたものが多く、瞑想について既に知っている人にも参考になる。

 また、目次を見ると「願望を捨てなさい」という項目があるが、これには注意する必要がある。ただ、「願望を捨てなさい」というテーゼだけを見ては行けない。Woodの意図を正確に読み取らなければ行けない。これはクロウリーが良く引用した、古代ギリシャの格言にも近いものがあるかもしれない。
 彼は以下のように言う(強調は紹介者)。

「ですから、集中できないと私にいわないでください。そういうことは、とりもなおさず、あなたは何もできないし、前にやろうと考えたことも何一つやり遂げなかった、ということになるでしょう。集中しようと望むとき、心を集中させるのは人間の本性でしょう。ちがいますか。もちろんそうです。しかしわたしは、あなたのどこが問題か知っています。あなたは願っているので、欲しているのではないのです。あなたは『わたしは集中しよう』といっていないのです。『わたしは、ほんの少し集中し始めよう』とすら言っていないのです。」(53-54)。
 この言葉から彼の人格と知見に、大いに敬意を払うべき美徳を発見することは、実践者、特になんらかの指導経験がある実践者にとってはきわめて容易であろう。

 細かい内容については、用語法の問題を別にすれば、秋端『講座』の瞑想コースなど、一定のコースを履修した経験があり、古今東西の神秘主義や実践書について数十冊の本を読んでいる人は、それほど新しい発見はないかもしれない。書かれた多くのことは理論と実践の学習により知っている。しかし、他の人の見解を聞く事は自らを豊かにする。読まれていない方は、読まれることをすすめる。

 ルシャンの瞑想入門を読んでも思ったが、秋端『講座』の瞑想コースに足りないと思っていた記述がこれらには良く書かれている。自らの経験から得られた教訓をこのような書籍を通じて再確認することは、自らの学習がそれほど誤っていたわけではない事が分かり、心強く、うれしい事ではある。
 しかし、なぜ『講座』の瞑想コースを学ぶ段階でこれらの書籍を入手できなかったのか。なぜ今になって手元に偶然の形でもたらされたのか。どうして誰も教えてくれなかったのか。知っていたならば、教えてくれてもよかったのではないか。と、多少恨み言を言いたくなる。
 確かに当時の私は今の私の眼から見ても、全てにおいて幼かった、何も知らなかった、本を読んでも価値に気づく事が出来なかったし、注意や敬意を払わなかっただろう。
 しかし、なぜ今になって私に与えるのか。これらによって私は自分の実践の道を確認できたし、現在のWorkに多くの示唆を与えられた。確かに今こそ私は知る必要があった。知るべきときに、もたらされたのは認めよう。それでも、もう少しどうにかならないのだろうか?と、「見えざる導き手」に問いたくなる事ぐらいは許してもらいたいものである。

 ところで、自分が長い実践を通して(魔術以外を含めば十数年は実践しているのでそう言っても誤りではないだろう)、苦しんで確認してきた教訓の幾らかが書かれている本の紹介は、実は複雑な心境である。
 まず、自分が苦しんで獲得したものを簡単に入手させるのは癪に障る。次に、苦労して獲得しなければ、体得できないとも思う。さらに、わざわざ文章を打ち込み知らせる相手として、労力に合う適当な相手かとも考える。このような形であっても、多くの方が考えている以上にわたしは労力と睡眠時間を費やしている。また、情報源は秘匿したほうが何かと有利かつ便利である。もしも、えらぶりたいならば、隠すに限る。そして、多くの人は伝えてもその内容を利用しない事も経験から、知っている。

 しかし、それでも私は伝えたいのである。我がことならがらこの心理は理解しがたい。
 人並みに知性はあると思うし、知性は功利的な視点を何時も示すが、魂がこれに抗し退ける。誠に持ってバカである。
 そして、この本はそのような魂が、「皆さんに知らせろ」という本である。価値を見つける人は見つけるだろう。聞くことができる耳のみが聞くだろう。
 多くの魔術書が今日邦語である。しかし、この本などに示された幾つかの事柄に比べれば、まったく価値はないものが多い。それらの本は、魔術の、人間の精神と自然の諸力の関係、世界との関係の本質を、全く突いていない。その欠片も含んでいない。真の霊的・魂の進歩の見地からはほぼ無意味だ。ただ知的関心や感情を満足させるだけである。
 しかし、この本はその欠片を含んでいる。多くの魔術師に瞑想訓練についての示唆と態度に対するアドヴァイスを授けるだろう。


 瞑想入門という同名の邦題で、370でローレンス・ルシャンを、410でアーネスト・ウッドを紹介した。

 やはり優先順位がある。魔術修行との観点ではアーネスト・ウッドの作品が順位が上である。

 理由は,ウッドの方がGDの訓練に直結する,からです。

 現代の「カバラ」派の魔術訓練における瞑想の最大のテーマは「生命の木」、それもフォーチュン風に言えば、マサース・クロウリーの学派のもの。私たちに言わせれば、ヴェールを脱いだカバラ(特にマサースのイントロダクション)、777神秘のカバラーであることは争いがほぼない。
 しかし、実践方法は、瞑想方法は意外と記述がない。『全書』が骨組みだけと言うときは、この辺も一つの要因かもしれない。
 考えるとクロウリーはともかく、フォーチュンも神智学協会の会員でロッジをもっていましたし、マサースもやはり交流があった。GDの会員の少なくない人が同協会の会員であり、更に多くが同会の出版物を読んでいた。
 とすると、GDオリジナルの部分以外は、共通の読書対象であった神智学系の出版物に実践のテクニックを置いていたであろう事が想像するのが自然です。タットワや月の呼吸以外にも。
 事実、神智学系のアリス・ベイリーあたりはAABライブラリーだかそんな感じの団体名がベイリーの『秘教瞑想に関する手紙』などを比較的安価にうっとりますがパラパラ立ち読みすると、上昇の技術が書いてあります。
 GDの人たちは私たちが上昇の技法ときいて「何それ?!」と思うときに、神智学協会で既に馴染んだ概念を実践に移すだけでこの変は実践者にとってえらい違いになる場合がある。
 ただ、私たちが矢の小径などを上るとき他のセフィロートに引かれる、他のパスが見えると書くとき、この人とたちは7光線で表現したり多少の差はあります。

 もっとも、Woodの本はこんな上昇の技法なんぞ書いていません。読んでみて色々、あっこれはこの訓練と同じだなと思ったところは多いのですが、例をあげて見ます。
 セフィロトには、悪徳と美徳、徳についての項目が一覧表にあります。みなさんはこれをどう扱っていますか?

 けっきょく知識として記憶するだけの人も多いのではありませんか?
 どうでしょう。しかし、Woodの本を読めば大丈夫。

 P.155-8に、「徳についての瞑想」の項目があります。この順序に従って瞑想すればよろしい。

 色彩についてはどうですか?
 塩についての瞑想はどうですか?、
 神の姿についてはどうですか?
 それぞれについて、対応する瞑想のしかたが解説されています。

 Woodの瞑想入門は1908年ごろが初版で、神秘のカバラーは1935年。フォーチュンは神秘のカバラー初版当時にWoodの著作を読んでいた可能性は大きいでしょうし、Woodの著作自体が当時神智学協会でポピュラーだった瞑想をまとめた可能性もある。少なくともバトラーはWoodの著作を読んでいたことが前記『魔法修行』から裏が取れ、バトラーの紹介するいくつかの行法に影響を見ることができる。

 GDやフォーチュンの想定していた瞑想修行(Visionの旅除く)は、ほぼWoodが紹介したものと同じではないだろうか。

 しかし、どうも日本ではクロウリーあたりの皮肉交じりの、毒舌評価にのっかった若気の至りのコメントに十数年も無批判に乗っかっている人も多いのですが(白状します、私も未だにその影響から完全に抜けていません)、神智学も、ウェイトもイエイツも余り馬鹿にしてはいけないようです。

 少なくともイエイツは、オカルトの著作家ではなく不当に魔術関係で小物扱いをされる場合がありますが、伝え聞く彼の 研究ノートなどの話からは、私たちよりずっとまじめに研究実践してたようですし、何よりオリジナルGDで参入儀式などの司官をしとったわけですから、良く考えたら日本の魔術師で彼より経験豊かと自負できる人はいないはずです。GDの参入儀式についてはクロウリーやリガルディは経験からは足元の及ばないのは事実でしょう。ただし、オカルト著作家としては作品を彼等ほど残していませんが。
 また、ウェイトも、江口ら『黄金の夜明け』では、かなり悪く書かれているが、ポール・フォスター・ケースなどの_Tarot_では、一種の権威として高く評価している。

 今後、私などが、軽んじてしまった領域を研究する人が増えると助かりますね。

目次

緒言 アニー・ベサント
著者はしがき
第一章 人生における成功 11
 無限の機会 成功と集中 より高い達成
第二章 魔法の箱 20
 心の第一の能力 意志の発見 思考の道筋 想起の練習
第三章 集中の助け 41
 緊張のない注意 自然像 確信
第四章 思考の連鎖 56
 歩く心 心の世界 魚の軌跡 気分の力 思考の集極化
第五章 日常生活での集中 72
 外的成功と内的成功 願いの愚かさ 力の節約 本当の仕事は遊び 四つの大敵
第六章 からだと感覚のコントロール 97
 座りかた 五つのからだの練習 なぜからだの訓練が必要か 感覚のコントロール
第七章 邪魔になる思考の排除 113
 自己からくる邪魔 一点にしぼった目的 テレパシー的な侵入者 周囲の影響
第八章 集中の実習学 124
 直進的および迂回的思考 順序だった練習 把持の練習 自己拡張の練習 精神的統御の練習 集中と学習
第九章 瞑想とはなにか 135
 集中と瞑想 瞑想と経験 瞑想と人間の進化
第十章 瞑想のしかた 149
 予備練習 物体についての瞑想 実際的な練習 徳についての瞑想 法則についての瞑想 献身的瞑想 文章についての瞑想 書き話すための瞑想 知的瞑想
第十一章  マントラつき瞑想 176
 マントラの本質 シュリ・クリシュナに捧げるマントラ シュリ・クリシュナについての瞑想 オームの意味
第十二章  瞑想の障害 186
 三つの段階 願望を捨てなさい 教師の必要性 自己の内にむかって瞑想しなさい
第十三章  観照 194
 あなたの思考の頂点 インスピレーション 知的三昧 一つの解説 献身的観照 観照と崇拝 自我の観照
第十四章  結語 217
訳者あとがき
以上
(初出:03/01/29,No.0410 and 03/01/31,No.0414 )


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作成者: TRK
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